磯風 ― 陽炎型が誇る「鉄の風」。 I
Veteran of the Pacific War.
Took part in the Battle of Midway, Guadalcanal, and the Final Operation of Yamato.
Scuttled with honor in 1945.
太平洋戦争の歴戦艦。
ミッドウェー、ガダルカナル、そして大和の最期の護衛。
1945年、名誉ある自沈。

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 建造所 | 佐世保海軍工廠 |
| 運用者 | 大日本帝国海軍 |
| 艦種 | 駆逐艦 |
| 級名 | 陽炎型駆逐艦 |
艦歴
| 項目 | 内容 |
| 計画 | 1937年度(③計画) |
| 起工 | 1938年11月25日 |
| 進水 | 1939年6月19日 |
| 就役 | 1940年11月30日竣工 |
| 最期 | 1945年4月7日自沈 |
| 除籍 | 1945年5月25日 |
兵装
磯風は陽炎型駆逐艦として、攻撃力に優れた兵装を搭載していました。
主砲:
50口径三年式12.7センチ砲連装を3基6門搭載。
射程や射速が優れており、対艦戦闘だけでなく対空戦闘としても使用されましたが撃墜は困難でした。
魚雷:
61cm四連装魚雷発射管を2基装備。
強力な酸素魚雷を同時8本運用可能で、命中すれば高い破壊力を誇りました。
対空兵装:
25mm機銃連装を2基搭載。
戦争後半には対空火力が増強され、航空機の脅威に対応。しかしながら航空用射撃指揮装置が無く肉眼による照準で撃墜困難でした。
爆雷:
爆雷投射機と爆雷16個を装備し、対潜水艦戦闘に対応。
主な海戦と役割 1939年:佐世保で起工・進水・竣工。第十七駆逐隊に配属。 南方作戦(1941年–1942年)1941年:真珠湾攻撃に参加。 開戦時の第十七駆逐隊(司令杉浦嘉十大佐:司令艦谷風)は第一水雷戦隊に所属。機動部隊に加わり、真珠湾攻撃に参加
第一次攻撃隊発艦時は、第六警戒航行序列「磯風」は空母「瑞鶴」の後方に配置 以降、ラバウル、ダーウィン、ジャワ島への空襲を敢行しました。
1942年2月25日、機動部隊はスラウェシ島スターリング湾を出発、ジャワ島南方へ進出
https://itoldya420.getarchive.net/amp/media/kd-b-staring-bay1942-1-copy-34a249
重巡洋艦愛宕の水上機から撮影した、スターリング湾に停泊中の日本艦隊の眺め。航空母艦赤城、加賀、戦艦金剛、比叡、霧島、重巡洋艦高雄、愛宕、利根、筑摩、軽巡洋艦阿武隈など、いくつかの日本艦艇が記されている。阿武隈の前方には、第17駆逐艦隊の4隻の駆逐艦(浦風、磯風、谷風、浜風)と数隻の支援艦が停泊しているのが見える。
1942年初頭:ジャワ海で商船撃沈、クリスマス島攻略、セイロン沖海戦に参加。
3月1日には【蘭武装商船 モッドヨカード】を共同で撃沈。 3月7日には、第二航空戦隊(空母飛龍、蒼龍)、第三戦隊第二小隊(榛名、金剛)、第十七駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)は機動部隊主隊から分離[9]。翌日、「浜風」、「磯風」が第二航空戦隊の護衛となり、他4隻がクリスマス島砲撃を行った。
4月4日 インド洋方面で行動。
1942年4月の第十戦隊(旗艦:軽巡洋艦長良)新設に伴い第十七駆逐隊もこれに所属し、引き続き機動部隊を護衛。
4月16日 「磯風」は補給部隊の護衛として機動部隊主隊と分離し、呉へ向う。
4月20日 兵力部署の改定が下令。第十七駆逐隊は第一水雷戦隊(阿武隈)の指揮下を離れる。
1942年6月:ミッドウェー海戦で空母蒼龍の救助に従事。一時航行不能も復旧。 ミッドウェー海戦(1942年6月):油断と不幸の連鎖となった「ミッドウェー海戦」。
【磯風】も【蒼龍】の生存者の救助を行い、撤退。 1942年(昭和17年)7月14日 艦隊の再編により第十戦隊(旗艦「長良」、第四駆逐隊、第十駆逐隊、第十六駆逐隊、第十七駆逐隊)は
第三艦隊に所属することになった 8月5日 第十七駆逐隊は外南洋部隊に編入された。 1942年夏以降: 8月7日にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸
ガダルカナル島での夜戦・輸送任務に参加(鼠輸送)。潜水艦・空襲と交戦。 8月19日 キ号作戦支援のため「磯風」は重巡洋艦「鳥海」(第八艦隊旗艦)に従いラバウルを出港する。 8月23日「鳥海」、「衣笠」と共にショートランド泊地に到着、その後「鳥海」は「衣笠」、駆逐艦「夕凪」と共に同泊地を出発して
「磯風」は残置。 8月24日 ショートランド泊地に停泊していた第三十駆逐隊、「磯風」、「江風」は、先行した駆逐艦「陽炎」と合流した上で、
ガダルカナル島のアメリカ軍基地砲撃と同島周辺の米艦隊攻撃、ガダルカナル島へ向かう一木支隊第二梯団の護衛へ。 日の出前、「睦月」、「江風」、「弥生」、「陽炎」はガ島砲撃を行う。 8月26日 「磯風」は「江風」、哨戒艇2隻、輸送船「大福丸」、「ぼすとん丸」をショートランド泊地に送り届けた。 ガ島を巡る戦いが始まった頃、「ラビの戦い」が勃発。 8月24日と28日の揚陸作戦には、磯風以外の17駆3隻(浦風、谷風、浜風)が第18戦隊(天龍、龍田)指揮下で参加 9月10日 大発動艇を破壊され取り残されていた佐世保第五特別陸戦隊を撤収させるため、磯風は第30駆逐隊の指揮下で駆逐艦弥生と共にラバウルを出港] 9月11日 B-17、B-25約10機による空襲を受け16時15分に弥生が戦没。磯風は回避行動中で、弥生乗組員の救助が出来ず、陸戦隊救援作戦も中止しラバウルへ避退。なお天龍、浜風による捜索も失敗に終わる。 9月21日 磯風は望月と共にラバウルから弥生生存者10名を救助。25日に望月を率いてノルマンビー島に上陸していた弥生乗組員83名を救助する。
同日、第17駆逐隊は外南洋部隊から除外され、9月28日をもって第18戦隊の指揮下を離れる。 10月13日 第17駆逐隊は機動部隊前衛(前進部隊)に編入。 10月下旬 南太平洋海戦に参加。 26日 南雲機動部隊とアメリカ軍機動部隊は互いに攻撃隊を送り込み、双方に損傷艦や沈没艦が出た。アメリカ軍機動部隊は敗走を開始する。 戦闘後、磯風は姉妹艦と共に損傷艦の内地回航護衛を命ぜられ、11月2日にトラックを出港。
佐世保入港後の同月27日、第17駆逐隊第2小隊(磯風、浜風)は第五戦隊(司令官大森仙太郎少将:妙高、羽黒)の指揮下にはいり横須賀へ向かう。 横須賀到着後は海軍陸戦隊、陸軍第六飛行師団要員、軍需物資を積載。 11月30日 第五戦隊と共に横須賀を出港してトラック泊地へ向いう。 12月4日 磯風、浜風は前進部隊に編入され連合艦隊よりラバウルへ向かうよう命令。 5日 トラック泊地着後すぐにラバウルへ向かい8日早朝着。物資揚陸後トラックへ向かい、10日到着をもって磯風、浜風は第五戦隊の指揮下を離れた。
1943年(昭和18年)1月5日より、ラバウルからラエへ陸軍第51師団の一部などを輸送する十八号作戦に参加
14-15日、駆逐艦秋月、時津風、嵐、黒潮、谷風、浦風、浜風、舞風と共にガ島輸送に成功、同日、米潜水艦アルゴノートと交戦、撃沈を報告している。
23日 舞風とレカタ輸送任務を実施する。
26日 舞風、喜山丸とコロンバンガラ輸送任務を実施。
同時期、日本海軍はレンネル島沖海戦で米戦艦2隻・巡洋艦3隻を撃沈、一時封止したと判断。劣勢に追い込まれていたガダルカナル島からの撤退作戦ケ号作戦を発動。第17駆逐隊の4隻も同作戦に従事。
「ガダルカナル島撤収作戦」
磯風は三次にわたるガ島撤収作戦の総てに参加。
1943年2月:ガダルカナル撤退作戦(ケ号)で陸軍司令官・軍旗を収容。空襲により艦首大破・火災も自力帰還。
ショートランド泊地に到着、救難船長浦丸の支援により、応急修理を実施。
2月11日 ラバウルへ回航。工作艦山彦丸により一番砲塔を撤去・船体補強を行う。
トラック泊地へ移動後、3月22日に出発、3月29日に呉に到着。
1943年2月16日、日本の駆逐艦「磯風」が修理船「やまびこ丸」の横に停泊した。「磯風」は「ケ作戦」中に艦首に2発の爆弾が命中して損傷を受けていたが、より大規模な修理のため日本に戻れるよう航行可能な状態に回復中だった。
7月上旬に修理が完了。磯風は機動部隊指揮官小沢治三郎第三艦隊司令長官指揮下の第一航空戦隊や重巡洋艦を護衛し、7月15日にトラック泊地へ進出。
磯風他はトラック泊地(停泊15-19日)を経由して7月21日にラバウル到着。
艦隊の再編が行われ、第十戦隊旗艦を軽巡阿賀野から駆逐艦萩風に一時変更、乙部隊(水上機母艦日進、萩風、嵐、磯風)はブーゲンビル島ブインへの、61駆逐隊(涼月、初月)はブカへの輸送作戦に従事することとな乙部隊はラバウルを出撃するもB-17爆撃機とアメリカ軍急降下爆撃機の空襲を受け零戦は16機の護衛ではアメリカ軍戦闘機30機以上・爆撃機46機の攻撃を防げず、上機母艦日進は爆弾6発の命中により沈没。第七戦隊整備員35名と陸軍兵を含め約1100名が戦死。23日、萩風、嵐、磯風はラバウルに帰着。
その後、第4駆逐隊と分離してトラック泊地に帰還。
8月6日 トラックを出発。第五戦隊、第61駆逐隊(涼月、初月)と共に南海第四守備隊第三次部隊をラバウルへ進出。
8月8日のラバウル着後、磯風は他艦と別れ、南東方面部隊に編入。
8月17日 駆逐艦漣(第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐座乗)、浜風、時雨と共に第一次ベララベラ海戦を戦う。
8月25日以降、浜風、磯風、時雨はサンタイサベル島レカタ基地(呉鎮守府第七特別陸戦隊)撤収任務に従事。
9月28日 コロンバンガラ島からの撤退作戦「セ号作戦」第一回撤退作戦に参加、磯風、時雨、五月雨は第一夜襲隊を編成して撤退作戦を掩護。
10月1日 磯風、時雨、五月雨、望月は第二回撤退作戦に参加、アメリカ軍駆逐艦隊と交戦し、戦果はなかったものの撤退作戦は無事に完了
10月30日 磯風と浦風はトラックにて第十四戦隊司令官伊藤賢三少将の指揮下に入り、カビエンに向かう陸軍第17師団輸送船を護衛。輸送任務は三次にわけて行われ、第十四戦隊、第17駆逐隊(浦風、磯風)、清澄丸、護国丸は第二次輸送任務を担当。
11月1日 駆逐艦雷の駆逐艦長だった前田実穂少佐が着任。同日、第二輸送隊はトラックを出港。
11月3日 アメリカ軍B-24爆撃機の空襲により那珂、特設巡洋艦清澄丸が被弾、浦風と護国丸は先行してラバウルに向う。
11月4日 磯風等はニューアイルランド島カビエンに到着。磯風は左舷後部に触雷し小破、同乗していた陸軍兵あわせて63名の負傷者を出す、このため磯風はカビエンに残置された。同日附をもって17駆(磯風、浦風)は遊撃部隊に編入される。トラック泊地の工作艦明石に接舷して応急修理をしたのち、内地回航部隊(妙高、羽黒、磯風、時雨、白露)はそれぞれ日本本土へ向かった。
11月18日 呉に到着、磯風は呉海軍工廠で修理する。
12月28日、修理完成。
1944年(昭和19年)1月12日、南方に進出。
ブラウンへの輸送に従事した後、26日トラック移動。その後、磯風は敷島部隊[注 7]と遊撃部隊[のトラック泊地~パラオ~リンガ泊地回航を護衛した。
3月中旬、パラオへの船団護衛。
29日、磯風、浦風はパラオ大空襲から退避する戦艦武蔵(連合艦隊旗艦)の護衛を行うが、米潜水艦タニー から武蔵への雷撃を許し、魚雷1本が命中した武蔵は本土に回航され、磯風は第一遊撃部隊の護衛部隊に加わる。
31日、第17駆逐隊に雪風が編入され、同隊は不知火型5隻(磯風、浦風、谷風、浜風、雪風)となった。磯風は第17駆逐隊司令艦に指定されていた。
同日、二式飛行艇で退避しようとした古賀峯一連合艦隊司令長官等が殉職する海軍乙事件が発生。
5月19日にタウイタウイに進出。
6月9日、駆逐艦磯風、島風、早霜、谷風は同泊地において対潜掃討任務に従事する。
午後10時、米潜水艦ハーダーの雷撃により谷風が目前で撃沈さる。
14日、谷風負傷者を乗せバコロドに入港する。
6月19-20日のマリアナ沖海戦には小沢機動部隊・甲部隊に属し、空母大鳳の直衛で参加。戦闘後、磯風は燃料不足のため艦隊から分離し単艦で沖縄中城湾へ向かう。
6月24日、内地に到着する
7月8日、陸軍部隊と軍需品輸送のため、遊撃部隊乙部隊として長門、金剛、最上、矢矧、浜風、若月、霜月と呉を出発。
沖縄(10-12日)やマニラ(14-17日)に立ち寄りつつ、20日にリンガ泊地へ到着。
同日、磯風は「シミ」〇八船団を浜風と護衛しシンガポールを発ち、14日ミリ着
16-20日「ミシ」〇六船団を護衛
20日シンガポールに到着するとレーダー改装工事を受ける
9月12日、矢矧、浦風、浜風、若月と共に呉に帰還
19日に呉到着後は若月と分離、内地にて修理を受けていた雪風と合同した第17駆逐隊は22日より扶桑型戦艦扶桑、山城の南方進出を護衛する。
レイテ沖海戦の直前、ブルネイに停泊していた日本艦隊を駆逐艦磯風から撮影(艦橋と艦首が見える)。写真には(左から右に)戦艦扶桑、重巡洋艦最上、戦艦大和、戦艦山城、重巡洋艦鳥海、戦艦武蔵が写っている。大和と磯風を除くこれらの艦艇はその後5日間で沈没し、その多くが乗組員のほとんどまたは全員を失ったため、この写真は重要な記録となっている。
https://itoldya420.getarchive.net/amp/media/g-zn-dv-1-ba-yaari-pv-e8d448
10月22日の捷一号作戦では栗田艦隊第一遊撃部隊(司令長官栗田健男中将)第二部隊(司令官鈴木義尾中将、旗艦金剛)に所属してレイテ沖海戦に参加。
10月23日、米潜水艦ダーターとデイス の雷撃により栗田艦隊旗艦愛宕、重巡洋艦摩耶が沈没、高雄が大破して戦線を離脱した。
10月24日、栗田艦隊はシブヤン海で空襲を受けた。磯風は戦艦金剛を中心とする第二部隊輪形陣の左後方に配置。第17駆逐隊は浜風を残して進撃を続けた。なお最終的に武蔵の沈没を目撃し、同艦乗組員の救助を行ったのはこの二艦である。
翌日10月25日のサマール沖海戦では、第十戦隊旗艦矢矧に従って米護衛空母群に肉薄、第17駆逐隊(浦風、雪風、磯風)と野分は各艦酸素魚雷攻撃を実施した。10月28日、ブルネイに帰着した。
11月7日 浜風とブルネイを出発、新南群島(南沙諸島)東方で重巡洋艦足柄と会合し、ブルネイに帰還、11月15日附をもって第十戦隊は解隊、磯風を含めた各艦はそのまま第二水雷戦隊(司令官木村昌福少将)へ編入。
16日、矢矧と17駆逐隊は日本本土へ戻る戦艦大和、長門、金剛を護衛して呉に向かう
21日 台湾沖にて米潜水艦シーライオン の雷撃により、戦艦金剛と第17駆逐隊司令艦浦風が撃沈された。
雪風は大和、長門を護衛して先行、磯風と浜風は金剛乗組員の救助に従事したが、浦風は全乗組員が戦死した。
23日、呉入港。
矢矧は空母隼鷹と合同して佐世保に向かい、第17駆逐隊には戦艦長門の横須賀回航護衛任務が与えられた。24日、長門、浜風、雪風と出港。
翌25日、横須賀港へ入港。
28日 第17駆逐隊は大和型戦艦3番艦を改造した空母信濃を護衛して横須賀を出港し呉へ向かった。
11月29日、米潜水艦アーチャーフィッシュ の雷撃で信濃が沈没、磯風、浜風、雪風は信濃の生存者の救助に当たった。
12月16日、新谷喜一大佐が第17駆逐隊新司令として着任、司令艦は雪風に変更された。
19日、連合艦隊電令576号により第17駆逐隊(雪風、浜風、磯風)は空母龍鳳指揮下に入り、台湾方面への輸送作戦が命じられる。
この輸送船団は『ヒ87船団』と命名されていた。佐世保で修理に従事していた第21駆逐隊時雨もヒ87船団護衛に加わる。
30日、雪風は機関故障により船団護衛に従事できず呉に引き返し、司令艦は浜風に変更された。
31日午前5時30分、ヒ87船団は門司の六連泊地を出港した。
年が明けて1945年(昭和20年)1月7日 台湾近海でタンカー宗像丸が米潜水艦ピクーダの雷撃により損傷、空母龍鳳は浜風、磯風、時雨に護衛されて基隆に寄港し、それを見届けて3隻はヒ87船団護衛任務に戻った。
1月9日、台湾の高雄市に到着。一方、浜風は修理のため馬公市にとどまった。
12日、龍鳳、磯風、御蔵はタモ35船団の護衛として基隆を出港。
17日、龍鳳と分離すると、18日に呉へ帰還。なお、高雄市で磯風と分離したのち引き続きヒ87A船団を護衛していた時雨は1月24日、マレー半島東岸で米潜水艦ブラックフィン(SS-322)の雷撃で撃沈してしまう。
2月15日 徳山沖で特攻兵器回天と震洋の訓練実施
3月5日 土佐沖で第一機動基地航空隊と対空訓練実施
3月19日 呉軍港空襲では軽巡洋艦大淀の隣に繋留されていたが被害がほぼ無かった。
3月26日 天一号作戦発動(GF電令作第582号)。
28日、呉を出港し広島湾兜島南方に第二水雷戦隊各艦と集結する。燃料弾薬は待機する駆逐艦から補給し、93式魚雷16本を積載した。
磯風の煙突には白ペンキで菊水マークが描かれた。「磯風」には新谷大佐以下第17駆逐隊司令部が乗艦していた。
4月6日 磯風は第二艦隊旗艦大和を護衛し徳山を出港、夜間には陣形訓練と大和を目標とした襲撃訓練を実施。
翌7日、坊ノ岬沖に進出するも、英艦載機の空襲により、17駆僚艦浜風が轟沈。
航行不能となった第二水雷戦隊旗艦矢矧から『第二水雷戦隊司令官(古村啓蔵少将)移乗のため横付けせよ』との命令があり、空襲のタイミングを見計らって矢矧に接近、アメリカ軍機の襲撃を受けた。右舷後部への至近弾により機械室に浸水、乗員の修理も成功せず、航行不能となった磯風は漂流した。
駆逐艦初霜に救助されていた古村少将は佐世保への帰投を急ぐため損傷艦の曳航を認めず、磯風の処分を決定する。19時25分には雪風による曳航準備(速力9ノット予定)が進められていたが、潜水艦の襲撃や翌日のアメリカ軍艦載機による空襲を懸念する古村少将は再度雪風による磯風の処分を命じた。
こうして磯風乗組員は「雪風」に移動。大和沈没から8時間の22時30分、
雪風が雷撃で磯風を処分しようとしたが魚雷は艦底を通過、最終的に砲撃処分となり22時40分、搭載魚雷の誘爆により磯風は沈没した
2016年5月の潜水調査により磯風と見られる艦艇が撮影されていたことが2018年2月、専門家の映像鑑定により確認された。
乗組員は雪風に移乗していましたが、最後の姿を磯風乗員は涙を流しながらいつまでもその方向に敬礼しつつ眺めていたと伝わります。
日本の軽巡洋艦「矢矧」(下)は、米海軍機の魚雷を受けて動けなくなり、水中に横たわっている。写真上部には、矢矧を助けようとする駆逐艦「磯風」が見える。その後、矢矧は航空機の攻撃で大きな損害を受け、その後、長崎の南西240km(北緯30.46度、東経128.92度)で駆逐艦「雪風」の砲撃により自沈した。乗員のうち20名が死亡し、残りは他の船に救助された。
レイテ沖海戦の直前に撮影された日本駆逐艦磯風の艦橋の写真。第二次世界大戦後期に日本駆逐艦に装備された艦橋盾が写っている。これは白石藤兵衛中尉が撮影した一連の写真のうちの 1 枚である。
https://timelessmoon.getarchive.net/amp/media/isokaze-bridge-1944-b64f91f
この写真の解像度に驚きました。磯風艦橋に装着された対機銃弾防護鋼板の具合がよくわかるのと、逆探知装置の形状が非常に明確です。
