世界最大の戦艦は、片道の燃料で東シナ海に向かった。
386機の艦載機と、14時23分の大爆発。
着る、戦術。
VESSEL RECORD
大和は、大日本帝国海軍の大和型戦艦1番艦である。1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠にて極秘裏に起工。「量の不足を卓越せる質で補う」という命題のもと、ロンドン海軍軍縮条約の制約を脱した日本が建造した超弩級戦艦だ。パナマ運河を通過できない幅ゆえ米海軍が建造不可能とされた46cm主砲を搭載し、その存在は最高軍事機密として徹底的に秘匿された。建造ドック周囲には棕櫚製の目隠しが張り巡らされ、設計図は配布後に即時回収された。1941年12月16日、太平洋戦争開戦8日後に竣工。基準排水量64,000t、世界最大の戦艦が戦時という宿命の中で誕生した。
開戦後、大和は連合艦隊旗艦として山本五十六長官を乗せトラック泊地に展開した。しかし戦況は急速に航空兵力へシフトし、巨砲が火を噴く機会はほとんど訪れなかった。居住性の高さから他艦の乗組員に「大和ホテル」と揶揄されながらも、1944年10月のレイテ沖海戦では栗田艦隊の中核として出撃。僚艦・武蔵が沈没する中、大和はその海戦を生き延びた。
1945年4月6日、天一号作戦発動。沖縄への海上特攻のため、燃料片道分3,000tのみを搭載して徳山沖を出撃した。護衛は軽巡洋艦矢矧と駆逐艦8隻に過ぎなかった。翌4月7日、延べ386機の米軍艦載機による波状攻撃を受け、魚雷約10本・爆弾約20発が命中。午後2時23分、坊岬沖において大爆発とともに沈没した。乗員3,332名のうち生存者はわずか269名。残りの者たちは、春の海に消えた。
世界最大の戦艦が片道の燃料で海に向かった——その事実が示すのは、敗北ではなく、覚悟の完遂だった。大和の最後は、帝国海軍そのものの最後だった。
— NECOKOUCAN — VESSEL RECORD主砲口径・門数
最終攻撃・米艦載機数
坊岬沖 生存者数
DESIGN INTENT
大和のデザインが捉えようとしたのは、「世界最大」という数字が持つ孤独な重さだ。46cm三連装砲塔3基が作る左右対称のシルエット、それを支える艦橋の威圧的な塔型構造——合理性を突き詰めた先に宿る、ある種の過剰な美しさがある。大和のシルエットは、国家が持てる技術の総力を一点に注いだ結晶だった。
カラーリングは帝国海軍標準の軍艦色(グレー系)を基調とした。しかし、このデザインはただの記録ではない。46cmの砲口が天を指す姿を纏うとき、着る者はその規模と、それが結局は海に沈んだという事実の両方を同時に問われる。着る、戦術。——大和はその問いを今も投げかけている。
COORDINATE
大和は、世界最大の戦艦が海に沈んだという事実を纏う服だ。片道の燃料、386機、14時23分の大爆発——その重さを知る者だけが選べる3色を提案する。
PHOTO 01
- 1945年4月7日14時23分——大和が消えた東シナ海の深さ
- 白プリントとの対比で46cm砲塔の三重シルエットが最大限に際立つ
- 世界最大の戦艦を纏う者だけが選べる、最も誠実な一色
→ 東シナ海の水深は200mを超える。ブラックはその底の色だ。大和は今もそこにある。
PHOTO 02
- 46cm主砲9門が斉射する瞬間——砲口から広がる硝煙の色
- 帝国海軍の軍艦色(グレー系)に最も近い実用的なストリート色
- ブラックとスレートの中間。最も「都市で戦える」軍色
→ 鉄の臭いと硝煙——大和が最後に纏った色。チャコールを選ぶ者は、戦いの記憶を身に刻む。
PHOTO 03
- 帝国海軍標準の軍艦外舷塗装色——大和が全生涯をまとった色
- 出撃前の徳山泊地、春の水面に浮かぶ大和の艦体はこの色だった
- 最も「正統」な大和の色。艦艇デザインと最高の解像度で共鳴する
→ 帝国海軍の灰は、ただの塗料ではない。それは「鉄が国を守る」という意志の色だ。スレートを纏う者は、その重さを知っている。