
陽炎型駆逐艦「不知火」の歴史と性能
陽炎型駆逐艦「不知火」は、日本海軍の駆逐艦として、第二次世界大戦を通じて多くの戦闘に参加し、その生涯を戦火の中で駆け抜けた艦です。本記事では、「不知火」の誕生から戦没までの歴史や性能の諸元、兵装の詳細、さらに参加した主な海戦について解説します。
1. 建造と基本情報
項目 | 詳細 |
---|---|
建造所 | 浦賀船渠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 陽炎型駆逐艦 |
起工日 | 1937年8月30日 |
進水日 | 1938年6月28日 |
就役日 | 1939年12月20日 |
艦名の由来 | 九州地方の特有の自然現象 |
発注 | ③計画 |
竣工 | 1939年12月20日 |
最期 | 1944年10月27日戦没 |
除籍 | 1944年12月10日 |
陽炎型駆逐艦は、日本海軍が戦前に開発した大型駆逐艦の代表格で、高速性と重武装を兼ね備えていました。
2. 性能諸元
項目 | 詳細 |
基準排水量 | 2,033トン |
全長 | 118.5メートル |
最大幅 | 10.8メートル |
吃水 | 3.8メートル |
主缶 | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | 艦本式衝動タービン2基2軸 |
出力 | 52,000馬力 |
速力 | 35.5ノット |
航続距離 | 18ノットで5,000海里 |
乗員 | 239名 |
3. 兵装
「不知火」は、高い攻撃力を誇る陽炎型駆逐艦の特徴を反映した強力な兵装を搭載していました。
- 竣工時兵装:
- 50口径12.7cm連装砲×3(計6門)
- 25mm連装機関砲(機銃)×2
- 61cm魚雷発射管4連装×2(計8門)
- 対潜水艦用爆雷16個 他
- 戦時改修後:
- 12.7cm連装砲2基(計4門)
- 25mm連装機銃の増設
九三式酸素魚雷を装備し、世界屈指の雷撃能力を持っていました。
駆逐艦「不知火」の戦歴
建造と初期活動(1937年~1941年)
- 1937年8月30日:陽炎型駆逐艦の第1番艦として浦賀船渠で起工。
- 1938年4月15日:正式に「不知火」と命名され、6月28日に進水。
- 1939年12月20日:竣工し、陽炎型2番艦として呉鎮守府に所属。第18駆逐隊(僚艦:陽炎、霞、霰)に編入。
- 1940年10月11日:横浜沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加。第三列に配置され、主に訓練を実施。
- 1941年9月1日:宮坂義登大佐が第18駆逐隊司令に就任。不知火が司令駆逐艦となる。
真珠湾攻撃と南方作戦(1941年~1942年初頭)
- 1941年11月26日:第一航空艦隊警戒隊(僚艦:陽炎、霞、霰など)として単冠湾を出撃。ハワイ作戦に参加し、真珠湾攻撃時には空母部隊の護衛を担当。
- 1942年1月~3月:ラバウル攻撃、ポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦に参加。
- 3月1日:オランダ商船「モッドヨカード」を僚艦(磯風、有明、夕暮、陽炎)と共に撃沈。
- 1942年3月26日~4月9日:インド洋作戦に参加し、セイロン沖海戦で勝利。その後日本本土に帰還し、呉で修理。
ミッドウェー海戦とその後の活動(1942年)
- 1942年5月24日:ミッドウェー作戦の攻略部隊に所属し、サイパン島を経由して上陸部隊の護衛を担当。
- 1942年6月4日~6月6日:ミッドウェー海戦に参加。主力艦の護衛を担当した後、大破した重巡「最上」をトラック泊地まで護衛。
- 1942年6月23日:呉に帰還。その後キスカ島護衛作戦に参加。
キスカ島護衛作戦での損傷(1942年)
- 1942年7月5日:キスカ湾に仮泊中、米潜水艦グロウラーの攻撃で被雷。第一缶室に被弾し大破。曳航不能となり、キスカ湾で応急修理を実施。
- 1942年8月2日~9月3日:舞鶴に移送され、長期修理に入る。
修理後の活動と再編(1943年~1944年初頭)
- 1943年11月:修理完了後、第九艦隊に編入。ニューギニア方面での輸送任務に従事。
- 1944年3月:第9駆逐隊(霞、薄雲、白雲)に編入後、第18駆逐隊として再編。
- 1944年4月以降:大湊、千島方面で護衛任務を担当。
レイテ沖海戦と最期(1944年)
- 1944年10月以降:第二遊撃部隊(志摩艦隊)に所属。スリガオ海峡突破作戦に参加。
- 僚艦:那智、足柄、阿武隈、第7駆逐隊(曙、潮)、第18駆逐隊(不知火、霞)。
- 1944年10月15日~10月20日:第二遊撃部隊(志摩艦隊)はフィリピン防衛の最終決戦に向け準備を進めました。しかし、戦況を冷静に分析する余裕はなく、10月14日の「台湾沖航空戦」では敵空母11隻撃沈という誇張された戦果が大本営から発表され、連合艦隊もこれを信じました。この戦果を受け、志摩清英中将率いる第五艦隊を含む志摩艦隊が残党処理の命を受け出撃しますが、志摩中将の冷静な分析によって先の誇張戦果は間違いの可能性があると判断。命令は撤回されました。
- 1944年10月25日:志摩艦隊は奄美大島を経由して馬公に到着するも、連合艦隊は「捷一号作戦」における志摩艦隊の役割を明確にできず、命令は混乱を極めました。当初、志摩艦隊は機動部隊の護衛訓練を行っていましたが、最終的に西村艦隊と合流し、スリガオ海峡を突破する計画に組み込まれます。隊が到着した時に軽巡阿武隈が被雷し、那智と最上が衝突する事故も発生。志摩艦隊は戦況を顧み撤退を決断します。撤退中、志摩艦隊は空襲を受け、阿武隈と最上が沈没。不知火ら生存艦艇はコロン湾へ到着しますが、レイテ島への輸送中に空襲を受け航行不能となった鬼怒の救援を命じられます。指定海域を捜索する鬼怒を発見できませんでした。1944年10月27日:空襲を受け座礁した早霜を発見し、救助に向かいます。セミララ島で早霜の乗員救助を試みる中、不知火は米空母「エンタープライズ」の艦載機による空襲を受け、艦中央部に爆弾が命中。爆発による大火柱を上げながら轟沈し、井上司令、荒艦長以下乗員全員が戦死。不知火は「レイテ沖海戦」における最後の喪失艦となりました。